【夏休みのコラム④】「公教育の崩壊」という嘘。


いざ、公立中学校の現場に入ってみると
そこは、驚きと感動の連続でした。

たとえば、
私が教壇に立つ「よのなか科NEXT」の授業では、
「これは中学生にはちょっと難しいなか」という課題にたいして、
授業中は黙っていた生徒たちが精一杯の論文を書きあげてくる。

「はたして、本当にステージに立てるのかな」と心配するほど
まとまりがなかったクラスが、
自主的に朝集まったり放課後に居残ったりして
本番の音楽会では最高のハーモニーを披露する。

部活動の試合では、
相手チームに追い込まれながらも決してあきらめず、
最後の最後で逆転勝利し、
生徒と一緒に歓喜の輪の中でお互いに抱き合う。

私が頭髪を念入りに剃った翌日は、
“校長先生、今日は一段と輝いていますね”
と、何人かの生徒が必ず声をかけてくれる。
逆に、一週間ほど手入れを怠っていると
“校長先生、頭、ちょっとあまくなっていませんか”
などと言ってくる。

3年生がそれぞれの進路に旅出っていく卒業式では、
緊張しながらも希望を秘めた面持ちの生徒に対して
ひとりひとりに声をかけながら卒業証書を渡していく。

ビジネスの世界にいると
「感動のあまりに涙する」というシーンには
なかなかお目にかかれないものですが、
学校の現場では、そんな体験を何度させてもらいました。

もちろん、感動の裏側には、
それを演出するための地道な努力や苦労が必要です。
ただ、それらを吹き飛ばしてしまうほどの感動があるのです。

「聖職」という言葉があります。
教師は一般の労働者以上の奉仕が期待されるものの
単なる労働や給料などに換算できない、
プライスレス(値段のつかない)な感動のある仕事であり、
その意味で教師は聖職だとつくづくと感しました。

実は、私の両親はその聖職である教師でした。
私の兄も現在教師をしています。
また、伯父や伯母、いとこを含めて教職についている人が多く、
いわゆる教員一家でした。
そんな家庭環境のなかで育った私でしたが、
教員になろうとは少しも思いませんでした。
どうしてならなかったのかと聞かれれば、
「もっと違う世界を見てみたいなぁ」と
漠然とそんなふうに考えていたからだと思います。
それでも、思わぬきっかけで校長という職業に就き、
学校現場で確かな感動を味わっている自分を客観視しながら
教師としてのDNAがあるのかな、と思っています。
 
 
新聞や雑誌などでは「公教育の崩壊」という見出しが躍り
また、学校にはモンスターペアレンツで溢れているかような報道がされます。
さらには「子どもたちから希望が奪われている」などと政治家が叫びます。

しかしながら、ビジネスの世界から公教育の世界に入った視点でいえば
医療や介護、年金制度、さらには大手マスメディアの報道体制のほうが
よっぽど時代に取り残され、崩壊をしていると思います。
また、保護者の一部には常識のない学校批判をされる方もいますが、
権利の意味を履き違えたクレーマーと言われる人たちは、
ビジネスの世界のほうがずっと多かったと思います。
そして、もし子どもたちの希望が奪われているとしたら、
それは責任のない政治家たちのせいだと叫びたくなります。

子どもたちは、日々真剣かつ懸命に授業に取り組み、
将来に不安をいだきつつも、夢や希望をもっています。
教師は、子どもたちのために情熱を持って指導し、
保護者や地域の方々も、学校に献身的に協力していただける。
指導的立場にある教育員会も、これほどまでに現場のことを配慮し、
バックアップをしてくれる組織だとは思いもしませんでした。
このことは、こと和田中学校に留まらず、
少なくとも日本のおおよその公立学校に当てはまるはずです。

教育そのものは決して崩壊などしていない、のです。

ただ、その一方で、
世界規模の経済・政治のシステムの変化に対応できず
公教育の現場に課題や問題点が山積していることも、
事実として受けとめなくてはなりませんでした。

次回つづく。


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