【朝礼】理不尽な評価を乗り越えて、自分で自分を評価する


みなさん、おはようございます。
 
 
先週の金曜日に、英語選択授業のみんなといっしょに「杉並区英語学芸発表会」に行ってきました。杉並区の各中学校の生徒が集まって普段の英語学習の成果を発表し合うというもので、今日はその時に感じたことを話したいと思います。

まず、和田中生の発表は本当に素晴らしいものでした。特に「ピーターパン」の劇は、みんなで力を合わせて一生懸命練習した成果が出ていて、見ごたえのあるものでした。他の学校の発表は一人で行うスピーチが中心なのに、和田中の発表は、唯一大勢の人が関わり、手間も時間もかかるプレイ(英語劇)にエントリーしました。音響効果あり、照明効果あり、小道具もていねいに作成してある、20分を超える本格的な英語劇を見事に完成させている様子は、さすが和田中生だと思いました。

最後の表彰の時になって、私は内心「少なくとも何か表彰されるだろう」と思って、期待していました。ところが、表彰されるどころか、和田中の英語劇の「ピーターパン」に関して何のコメントもありませんでした。私はプログラムが終了したあと、すぐに審査員である3名の外国人の先生のところに駆け寄って「なぜ、表彰されないのか、その理由を教えて欲しい。少なくとも講評はして欲しい」とお願いしました。その後、その先生方は和田中生のこところに来て、表彰されなかった理由と講評をしていただきました。「和田中生の英語劇は、素晴らしいものだった。しかし、比較するものがなかったので評価は難しかった。それで、プレイ(英語劇)はなく、スキット(寸劇)のほうを選んだ。」というものでした。英語劇と寸劇では、関わる人数も時間も違うはずなのに、それを同じ基準で評価で行うのはおかしいと感じ、すっきりと納得することはできませんでした。

でも、私は、発表会に参加したみなさんにこの結果は受け入れて欲しいと思います。人が人を評価することにおいて、すべての人が納得するような完璧な評価をすること自体がとても難しいからです。そして、現実的に、表彰されるに足る何かが足りなかったのかもしれない、と思うからです。たとえば、この前の学芸発表会の合唱コンクールの表彰にしても、歌い終わったあとは、「自分たちが金賞だ、と思ったのに他のクラスに金賞を奪われた」と思った人は多いと思います。審査員である私も、評価するたびに迷い、結果として私の評価と違うクラスが金賞を獲得した学年もありました。でも、金賞をとったクラスは、それなりの理由があったのも事実。人が何かを評価をするということは、そもそもとても難しいことなのです。

今回の英語劇に限らず、これからのみなさんの人生においても、納得いかない評価を受けたり、理不尽な結末を迎えたりすることは数多くあると思います。でも、そこで大事なことは、その結果にいたる過程において、自分が納得できるほどの努力ができたのか、最善を尽くせたのか、ということだと思います。結果にいたるまでの道のりにおいて、自分がベストを尽くせたのであれば、他人の評価や結果については、100パーセントとは言わないまでも、自分の中で受け入れることができるのものではないかと思います。

発表会に参加したみんなと、最後に記念撮影をしました。みんなの顔はとても誇らしげだったのを覚えています。たぶん、この日を迎えるまでに、みんなで力をあわせ一生懸命やってきた、そのプロセスでベストを尽くしてきたからこそ、今日はそれを発表できたという充足感があったのだと思います。残念ながら、表彰されることはなかったけれど、自分たちに高い評価を与えてもいいと思います。「結果はどうであれ、その過程で頑張ってきた自分をほめてあげる」。こういう気持ちを持てることも大事だと思います。

今日は、以上です。


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